カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
「生きる力」はどこから生まれるのか?
■路肩からバイクを発進させる時、ほとんどの人は後ろを確認しない
これもバイクに乗っていないと気が付かないことかもしれないが、〔路肩からバイクを発進させる時に、ほとんどの人は後ろを確認しない〕ということに気づいた。私の目算でも、その確率は9割に達するのではないか、と思っている。その該当者は、老若男女、バイクに乗る人全てであると考えてもらっても構わない。
Facebookにこの件について投稿すると、友人から「インドネシアの人も同じだよ」という連絡がきた。「そうか、これはカンボジアとベトナムの2つの国というより、東南アジア全域に当てはまることなのか」と思った。
そのことをカンボジア人の友人とベトナム人の友人にぶつけてみた。
カンボジア人の友人の第一報は次のようなものだった。
「一般の人は確認せずに発車しているのが普通ですが、自転車にいつも乗っている私は後ろを確認してから前に進んでいます」
読みながら笑ってしまったのは申し訳ないが、やはり、あらためて問われると、「この慣習はあらためなければならない」とほとんどの人が思うことなのだろうな、と。友人の一報で理解できた。その後に送られてきた内容を読むと、友人のまじめさがにじみ出ていたので、この内容にも私は「ニンマリ」してしまった。
「譲り合うことが大切です。しかし、みんなは相撲取りのように気合で運転しています」
「交通についての公民道徳が、子どもの時から教育されていないというのも理由にあると思います」
「カンボジアの伝統教育では、親から引き継いでいることが多いです」
これを読んでいて「ふと」思うことがあった。それは、私の目の前に繰り広げられる「マイペースなバイクの乗り方」や「衝突しそうになってもトラブルにならない対応の仕方」などは、カンボジアやベトナムの人たちが長い間「生きることに精一杯」であったことと、繋がっているのではないかということだ。
「生きることに精一杯」の人たちは、生きていくために自分で、または家族で、何でもやらなければならない。誰に頼ることもなく自分のことは自分でやってきたのだから、何か行動を起こす時は、自ずと自分のペースで行うことになるし、誰かに何かを期待することもないのだろう。唯一、頼りにできる、期待できる存在が、自分自身であり、家族なのだ。
このような生活を続けていると自分のペースで行動することが当たり前になり、相手に合わせて行動することが面倒になるのではないだろうか。その上、交通教育やルールをしっかり学んでいなければ、ルールに沿って行動するよりも自分のペースや感性、そして慣習に従って行動するようになるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。
また、他の車やオートバイと衝突しそうな状況になっても、彼らの中でトラブルにならないのは、お互いが他人に多くを「期待していない」からであり、お互いがそれぞれのペースで動いていることが分かっているので、目の前のバイクが自分の思っているような動きをしなくても、それが当然だと受け入れられるのだ。